贈從三位脇屋義助卿薨去日について

  • 2014.06.11 Wednesday
  • 03:09
JUGEMテーマ:日記・一般

本日は、新田公舎弟の脇屋義助卿の御命日(6月13日)が近くなってきたこともあり、ちょっと薨去日時の整理をしておこうと感じました。


なお、「卿」や「薨去」という語については、きちんとした歴史認識の下での敬称であることを付記させていただきます。


一昨日、桂宮宜仁親王殿下の御薨去にありましては、報道関係がほぼ一斉に「逝去」という言葉を発しています。

正しくは「薨去」とされるべきです。我が国は、古来より敬称についても細かい規定があり、同じことを表すにしても厳格な区分がなされるなど、特有の文化があります。


天皇や上皇、法皇、また皇后、皇太后、太皇太后は「崩御」(ほうぎょ)、皇族や三位以上の人の訃報に接して「薨去」(こうきょ)。他、故人に敬意を払って「逝去」(せいきょ)。今は位階が生前に贈られることはないのでほぼ有り得ないですが、かつては四位、五位の訃報には「卒去」(そっきょ)とも言っていました。江戸時代の家譜にもそれがきちんと使い分けてありますね。三位以上の方は「薨ず」、四位や五位に叙された方には「卒す」、そうでない方には「死す」となっているのは恐らくその使い分けです。


「卿」(きょう)という敬称も、もちろんそうです。


また、今や歴史上の人物に誰でも「○○公」と付ければよいというものではありません。

「公」は一位もしくは大臣の任にある場合、「卿」は三位もしくは参議以上の職にある場合、「朝臣」(あそん)は四位の位にある方の敬称です。


当社の御祭神記を見ても、主祭神・贈正一位新田義貞公、配祀神・贈從三位新田義宗卿贈從三位脇屋義助卿贈從三位新田義顯卿贈從三位新田義興卿…とあります。これは、本当に歴史的な認識に基づいたものであり、決して適当につけているものではありません。


また、「新田義貞公」というのは現代の人々からの通称で、正しくは「贈正一位大納言源朝臣義貞公」となります。

生前は「正四位上左近衞中將源義貞朝臣」と呼ばれていました。しかし、卒去後、南朝天皇から從三位中納言、続いて從二位大納言が贈られ、晴れて「新田義貞卿」となりました。明治に至って、北朝系天皇である明治天皇より、改めて正三位、追って正一位が贈られ、「新田義貞公」と称されることとなりました。


「朝臣」(あそん)も敬称としての場合は「あそん」、姓の際は(源朝臣、藤原朝臣、平朝臣など)「あそみ」と訓ずるのが正しく、この読み方も混乱しているようです。


さて、前振りが長くなってしまいましたが、脇屋義助卿の薨去は興国3年5月2日(1342年6月13日=グレゴリオ暦)というのが「藤島神社御祭神記」に拠るところです。また、これは南朝年号であり、北朝の年号では康永元年。


義助卿は兄・義貞公亡き後の南朝軍勢を結集して越前の黒丸城を攻め落としましたが、足利方に敗れて越前から退却しました。興国3年(1342年)に、中国・四国方面の武家総大将(南朝)に任命されて四国に渡ったものの、伊予国府(国分寺)で卒去。明治16年8月6日、明治天皇より從三位を贈位され、藤島神社に勅使が派遣されました。


また昭和8年(1933年)、兄・義貞公の館跡と考えられている安養寺(現群馬県太田市)から義助卿を追悼する板碑が発見されました。北朝年号で書かれていたことから真贋問題に発展しましたが、北朝方についた新田一族(岩松氏)側の営んだものだと考えられています。これに拠るとその日付は康永元年5月11日(1342年6月22日?)となっています。


いずれにしても、配祀(明治9年11月)の後は祭日を決める必要があり、御祭神記にあるように興国3年5月2日、つまりグレゴリオ暦に換算した1342年6月13日が御祭日と決し、つまり明治10年6月13日以降は同日で祭典が営まれているということになります。

奇術師・松旭斎天一と藤島神社

  • 2011.02.19 Saturday
  • 15:06
JUGEMテーマ:ニュース
 

奇術師・松旭斎天一、後世に 日本協会・藤山氏、取材で来福

 福井市出身の奇術師松旭斎天一の資料を見る藤山新太郎さん(右)=18日、福井市郷土歴史博物館
福井市出身の奇術師松旭斎天一の資料を見る藤山新太郎さん(右)=18日、福井県の福井市郷土歴史博物館


 松旭斎天一 松旭斎天一


 福井県福井市出身で明治期を代表する西洋奇術師松旭斎天一(しょうきょくさいてんいち)(1853〜1912年)の伝記を書くため、日本奇術協会副会長の藤山新太郎さん(55)=東京都杉並区=が18日、福井市郷土歴史博物館や天一ゆかりの地を訪れ、資料収集や取材に当たった。

 藤山さんは、天一から数えて5代目の弟子に当たり、日本の伝統奇術「手妻(てづま)」の第一人者。「水芸」や、左右の親指を絡めたまま柱を“貫通”させる「サムタイ」など、天一の芸を継承している。

 今年刊行予定の「松旭斎天一伝」(仮称)の資料収集のため、福井奇術同好会の山口敏雄会長らと福井市郷土歴史博物館や天一の墓がある同市の通安寺などを回った。同博物館では、郷土史研究家だった故青園謙三郎氏の寄贈資料などを閲覧した。天一が晩年に好んで描いただるまの絵や書の写真の複写、資料の掲載許可を申請した。

 長年、天一の研究を続けてきた藤山さんは「天一は日本伝統の奇術と西洋奇術を融合させ、現在のショーの礎を築いた。日本の奇術史で絶対にクローズアップさせないといけない1人であり、福井で新たな資料を見つけたい」と話していた。

 藤山さんは執筆に当たり、明治、大正期に人気を集めた福井市の劇場「照手座」の写真を探している。連絡先は=☎03(5378)2882。

 松旭斎天一 福井藩士、牧野海平の8番目の子として1853(嘉永6)年、現在の福井市に生まれる。幼名は八之助。15歳で放浪の旅に出て奇術を覚える。米国奇術師ジョネスに出会い、中国・上海で修業する。80(明治13)年、松旭斎天一と改名し、大阪で天一一座を旗揚げ。東京へ進出し名声をつかみ、89年には天皇、皇后両陛下に御前公演。91年、「照手座」で福井初公演。1910年に体調を崩し翌年、一座を解散し引退した。


(以上、今朝の福井新聞の記事=福井新聞HPより記事を転載)




 松旭斎天一と藤島神社

 藤島神社の一ノ鳥居脇に、天一の奉納した大灯篭が一対あります。
 福井藩士出身の天一は、武門も守り神である藤島神社に大変心を寄せ、東京ほかで活躍の中、時々福井へ帰ってきては当社を崇敬・参拝されたようです。
 その結果、明治末年、それこそ死の直前、嶺北夕唯一の官社である当社へ崇敬の誠を表す一対の石灯篭を寄進しました。
 時期を同じく、弟子の天二によって一ノ鳥居脇の手水舎鉢が寄進されましたが、昭和8年の昭和天皇御親拝の際、手水舎が上の二ノ鳥居下へ移築される際に改まり、残念ながらその手水鉢は残っておりません。











 明治42年8月吉祥建之とある。








 

牧の島の藤島神社

  • 2011.01.29 Saturday
  • 20:29
JUGEMテーマ:学問・学校
 
 以前、藤島神社が現在の福井大学の前にあたる部分に鎮座していたことは述べました。
 そしてその写真も紹介しました。

 このたび、大館家からの史料に、牧の島時代の写真が含まれていました。内から外を向いたショットです。正面鳥居の外側は芦原街道だと思われます。つまり、現福井大学の方を向いているということです。

続・大館尚氏

  • 2011.01.29 Saturday
  • 20:23
JUGEMテーマ:学問・学校

正編にて入りきらなかったので、続きです。



※ぢ膣杆斬析此奮し蛎な質躊董



発令日              役職・階級・補職・任官

慶応 2年(1866)  122日生

明治16年(1883 9 7日  機関校入校

明治20年(1887 712    海軍少機関士候補生・筑紫乗組年(旧海機卒)

明治21年(1888 3 8   日進乗組

明治21年(1888 917    海軍少機関士

明治21年(1888 918    金剛乗組

明治21年(18881110    清輝乗組

明治21年(18881114    清輝乗組・機関校教授

明治21年(18881220    清輝乗組

明治22年(1889 125    海兵機関術教官心得

明治23年(1890 717    比叡乗組

明治24年(1891)       叙正八位

明治24年(1891 723    武蔵乗組

明治24年(18911120    高千穂乗組

明治25年(1892 927    筑紫乗組

明治25年(18921221    海軍大機関士・迅鯨乗組

明治26年(1893131    叙從七位

明治26年(1893 5 5    横須賀水雷隊攻撃部水雷主機

明治26年(1893 623    松島乗組・水雷主機

明治27年(1894 4 4    橋立乗組・水雷主機

明治27年(1894 523    呉水雷隊攻撃部機関長・水雷主機

明治27年(1894 619    呉水雷隊攻撃部機関長・水雷主機・敷設部機関長

明治27年(189412 5    扶桑乗組

明治28年(1895 814    操江機関長

明治28年(1895927    六級俸

明治28年(18951118    勲六等

明治28年(18951126    叙正七位

明治28年(18951227    機関校教官・監事

明治29年(18961028    造船造兵監督官

明治29年(18961031    英国出張

明治31年(1898 222    海軍機関少監

明治31年(1898 330    造船造兵監督官

明治32年(1899 322    仏国留学

明治32年(1899 929    海軍機関中監

明治34年(1901 4 1    仏国駐在

明治34年(1901 9 2    命帰朝

明治35年(1902 312    八雲機関長

明治35年(1902 611    待命

明治35年(1902 730    教本部員・海大教官

明治35年(190211 8    東京造兵廠製造科長・海大教官

明治35年(19021120    東大工科大講師嘱託

明治36年(19031110    呉工廠検査官・造兵部部員

明治36年(19031124    解嘱託

明治38年(1905 318    海軍造兵中監・叙從五位勲五等

明治38年(1905 629    呉工廠造兵部部員

明治38年(1905 8 5    海軍造兵大監・勲四等旭日

明治38年(19051212    佐工廠造兵部長・勲三等旭日

明治43年(1910 115    呉工廠水雷部長

明治44年(1911 118    横工廠造兵部長

明治45年(1912 2 3    海軍造兵総監

大正 2年(191312 1    待命

大正 3年(1914 2 4    歿(48) 叙從四位

 

 


 

水谷叙彦(みずたに・よしひこ)

慶應元年(18651228日〜昭和22年(19471210

日本人で初めてゴルフをした人物(ゴルファー第1号)

明治・大正・昭和期の元海軍機関少将

愛知県出身。





明治18年(1885)海軍機関学校旧3期(第一次)を首席で卒業。

明治26年(1893)から3年間グリニッジ英国海軍大学に留学し、デザイン・バイ・ユーザーの先駆者となった。

在英中はマラック機関少佐より教授を受け、その講義ノートを、中島与曽八(のちの中将)が翻訳して『機関計画一斑』を作成し、日本の海軍機関計画の土台をつくった。また、在英中の明治29年(1896)、英国最古のロイヤルブラックヒース・ゴルフクラブで日本人として初めてゴルフをプレーした。同宿の米国人士官二人の友人に誘われて、その友人の手引きでゴルフを行ったことを、自らの日誌に「ゴルフィングを為す」と書き残しているという。これは日本にゴルフコースが誕生する明治34年(1901)よりも5年も前に本場英国でゴルフをしたということであり、日本人で初めてゴルフをプレーした人物と称される。

明治36年(1903926日に海軍大監となり、呉造船廠造機科長兼海大教官、同年1130日、呉工廠造機部長、明治39年(1906126日、海軍大佐、明治40年(1907)海軍造船造兵監督官として再び英国に駐在し、翌年の帰国後、優れた工場管理規程を作成した。明治42年(1909121日海軍少将、明治44年(1911118日、再び呉工廠造機部長となる。明治45年(1912629日侍命、翌大正2年(1913210日予備役。

この間、山本安次郎と共に機関学会創立に関わり、海軍機関術の発展充実に責献。

大正4年(1915)工学博士。

英国の技術を導入して国産の兵器を製造する英国の民間企業が出資し設立された日本製鋼の社長も務めた。功四級。

昭和22年(19471210日逝去。享年81歳。

妻は大館尚氏の次女まち子(昭和21年(19461213日没 同墓)。

『日本海軍将官総覧』、『帝国海軍提督総覧』など参照

 

 

福島縫次郎(ふくしま・ぬいじろう)

18731933明治-昭和時代前期の鉄道技術者。

明治6318日生まれ。

福島敬典(よしのり)の養子。

明治32年鉄道庁に入り、日露戦争後、鉄道院に勤務。

欧米視察後、東京鉄道局工作課長などを勤める。

のち東京帝國大学大講師。

日本製管社長。

昭和8413日死去。61歳。福井県出身。東京帝大卒。旧姓は大館。

 

 

海軍少将・福島敬典(ふくしま・よしのり)

18391896幕末-明治時代の武士、軍人。

天保10722日生まれ。

越前國(福井県)敦賀藩士。

戊辰戦争では新政府軍の摂津艦に乗り組み、越後、箱館を転戦。

維新後海軍大尉となり、「筑波」艦長などを勤め、明治20年海軍少将。

明治29123日死去。58歳。

通称は弥太六。名は「たかのり」ともよむ。

 

発令日          補職・任官

天保10年(1839)年 722日生

慶応 4年(1868)年 1        富有丸乗組年(福井藩)

明治元年(1868)年10        摂津乗組

明治 2年(1869)年 1        朝陽副長

明治 2年(1869)年 6        富士山乗組

明治 2年(1869)年 8        大坂丸船長代

明治 4年(1871)年 517    海軍大尉年(初任)・甲鉄艦長代

明治 4年(1871)年 6        鳳翔艦長

明治 4年(1871)年1110    海軍少佐

明治 5年(1872)年 4        日進艦長

明治 5年(1872)年 8 2    海軍中佐

明治 6年(1873)年 3 3    龍驤艦長

明治11年(1878)年1121    海軍大佐

明治15年(1882)年 7 7    扶桑艦長

明治15年(1882)年 819    迅鯨艦長

明治15年(1882)年12 7    横須賀水兵屯営長・横須賀予備艦総理

明治18年(1885)年 221    横須賀水兵屯営長・兵次長・教務総理

明治19年(1886)年 1 6    筑波艦長

明治19年(1886)年1228    海兵次長・教務総理

明治20年(1887)年 926    海軍少将

明治20年(1887)年 928    横須賀軍港司令官

明治22年(1889)年 3 8    横須賀軍港司令官/将官会議議員

明治25年(1892)年1212    第二局長

明治26年(1893)年 520    待命

明治26年(1893)年 524    予備役

明治29年(1896)年12 3    歿(57)

 

 

小川 正孝(おがわ・まさたか)

元治2126日(1865221日)〜昭和5年(1930711

日本の化学者。

松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学び、ロンドン大学のラムゼーの研究室に留学した。2年間の留学中トリアナイト(トリウム鉱石)の中に新元素を探す研究を行った。

明治39年(1906)の帰国後も研究を続け、「原子量が約10043番目の元素」として明治41年(1908)に発表し、ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したと発表した。

追試で存在を明確な証拠が得られないまま、43番目の元素は、昭和22年(1947)にセグレによって重水素核とモリブデンの衝突実験で発見されたテクネチウムとなった。

しかし、1990年代になって研究の再検討がおこなわれ、小川の発見したのは原子番号75のレニウム(大正14年(1925)にノダックらによって発見されたとされている)であった可能性が高いと見られている。

最近になり、小川が昭和5年(1930)、亡くなる直前に自ら精製したニッポニウムを含む試料を東京大学など2ヶ所でX線分析にかけてもらった結果、ニッポニウムはレニウムだという結論に達していたことが判明した。

大正8年(1919)から昭和3年(1928)まで東北大学の総長を勤め、在任中に金属材料研究所、工学部の創設などを行った。

教え子には、大正製薬の創業者である石井絹治郎がいる。

大館尚氏

  • 2011.01.29 Saturday
  • 20:20
JUGEMテーマ:学問・学校

 当社第2代宮司(初代権宮司)の詳細が不明でありましたが、昨年11月にご縁があり、大館家の末裔の嶺山さんから消息をいただきまして、現在、福井大館家当主の弟さんの大館祐次さんにご連絡をしていただきました。旧臘大館家に残る史料をお借りすることができ、事績ほかの事項が判明しました。
 大館さんより、去る25日にもご来社いただき、その他のお写真などもお借りできました。
 そこで、私見から旧福井藩士出身、大館尚氏周辺についてまとめてみました。
 ご意見等ありましたら何なりとお申し出ください。




第二代宮司

從七位 大 館 尚 氏(おほだち・ひさうぢ)

越前福井藩士(200石)・大館家第6代当主

5代・大館兵馬俊氏の長男 母石川氏(平八光知女)




天保762日生まれ。始め大谷徳太郎、源紀、殳麿、雄氏、和氏、氏亮

文久 21110日 父俊氏とともに鎌倉に宗祖・宗氏の墓碑を再建

  同 35月     黒龍丸乗組

  同  年1228日 大館に復姓(弟・大館多仲譜より)

  同  年1215日 被召出五人扶持

元治元年 825日 家督相續

慶應 4312日 軍事目付見習 のち御目付見習

  同  年 6月     會津御征伐に付き軍監出陣

明治 2年 215日 年給70

  同  年11月     海軍操練所出仕(兵部省)

  同 3227日 病気免職願御附第願之趣聞届候事(兵部省)

  同  年 325日 軍務寮出仕(福井縣)

  同  年 425日 賞典米永世五十石

  同  年 825日 職務差免候事(福井縣)

  同  年128日 軍務寮出仕兼豫備隊長(福井縣)

 同 447日 豫備解隊に付免職更に兵學所出仕(福井縣)

 同 6527日 第四十九大區長申付候事(敦賀縣 ※ 

  同  年12月     區畫改正に付免職(敦賀縣)

  同  年12月     當年より太陽暦発行に付豆腐の家禁を廃す(※◆

 同 711月     不動小學訓導(敦賀縣)(履歴書・9月とす)

 同 9416日 第十六大區學區取締申付候事(敦賀縣)

 同  年 55日 依願職務差免候事(敦賀縣)

 同  年 7月     不動小學訓導(敦賀縣)

 同  年1125日 任藤島神社権宮司 十一等(教部省)

 同101214日 太政官第九十一號御達に付廃官

 同  年1225日 任藤島神社禰宜(内務省)

 同13624日 補権中講義(内務省)

 同141112日 任藤島神社宮司(内務省)

 同15929日 皇典講究所委員委託候事(皇典講究所)

 同1923日 叙正八位

 同261227日 叙從七位

 同29518日 辭職(履歴書・依願免本官とす)

 同  年 525日 東京へ出立移住

 同30421日 病死 於東京62

室・群(むら)女

叔父・津田彌太六正順(祖父・氏信五男)長女

弘化元年97日生まれ

安政61220日婚

 

 

明治91125日、藤島神社が別格官幣社に列せられるに当たり、御祭神・新田義貞公の十一部将の後裔の故に権宮司に任ぜられた。同101214日、太政官第91号御達に付廃官となり、同月25日、改めて禰宜に任ぜられた。

明治141112日、小鹽宮司の退任に伴い宮司に昇進。

皇典講究所(後の國學院大學)では委員となり、中央の会議に度々参画した。









 

●家 族



 古刀の写真

妹は福井藩士・長谷部連人に嫁いだ敏女(始め野尾、琴、古刀)

弟は福井藩士・館多仲のち大館多仲(※)

1子長女・風(早世)

2子長男・源太郎(※ぁ

3子次女・安佐女(始め美波)鳥羽藩士・山澄太三郎妻

4子三女・末知女(萬千子)水谷叙彦(※ァ忘

5子次男・縫次郎(※Α法ヽし馨将・福島敬典(※А僕椹

6子四女・組緒女 松山藩士・小川正孝(※─忘



   萬千子の写真

 


当時の福井県事情は、廃藩置県に先立つ明治31226日(1871122日)、本保県(越前市)が設置。

明治4714日(1871829日)の廃藩置県によって、丸岡藩(有馬家)・福井藩(松平家)・勝山藩(小笠原家)・大野藩(土井家)・鯖江藩(間部家)・小浜藩(酒井家)の各藩が廃止され、現在の福井県域(越前国・若狭国)に7つの県が設置された。

明治41120日(18711231日)福井県と敦賀県の2県となる。

明治41220日(1872129日)福井県が足羽県に改称。

明治6年(1873114日、足羽県が敦賀県に編入(ここでほぼ現在の福井県の県域となる)。

明治9年(1876821日、木ノ芽峠を境に敦賀県が分割され、現在の南越前町以北が石川県に、現在の敦賀市以西が滋賀県に編入。

明治14年(188127日:太政官布告により、嶺北が石川県から分離され、嶺南が滋賀県から分離されて、双方が合併して、福井を県庁所在地として現在の福井県が設置。

 ●なお、明治5122日までは日本は旧暦であり、翌日123日を明治611日とした太陽暦へ移行し、現在の暦となった。従って、以前の暦は旧暦で記載し、( )書きで新暦に換算した日を掲げた。

 

 

従来、大館家には家禁があった。

大館多仲の譜中に、

 

「家禁 容宇(大館俊氏)考より云ひ傳にて存せるものなり

 オモダカ 宅内に入る可らず

 猫 畜ふ可らず

 豆腐 1216日より正月16日迄入る可らず

維新の頃、暦の改ると共に廃せしなり

尚氏兄時代の事

オモダカ、猫は尚存せるなり

然るに正月の床飾り十五夜の團子

等の如きは行ふ可らざるもの悉く

廃せしなり」

とある。

なお、オモダカは澤瀉であろうと思われる。オモダカ科オモダカ属の水生植物であり、ハナグワイ、サンカクグサ、イモグサ、オトゲナシなど多くの別名がある。

オモダカの語源ははっきりせず、人の顔に似た葉を高く伸ばしている様子を指して「面高」という字を当てることもある。

 現在、大館家ではこの家禁は存在していないとのことである。

 

 

※B膣杪臣隋覆ほだち・たちゅう)

大館俊氏の次男。大館尚氏の弟。




始め大谷新次郎、又八郎、大館清蔵、藤九郎、多仲。

諱も俊眞、宗誠、貫氏、滋氏。

號・壽福、始め智機宇。

天保14810日生まれ。

文久31228日 大館に復姓。

明治以後、分家し館を姓とするも後大館家に帰籍。後年更に分家。

福井県坂井郡春江村中庄鎮座・神明神社祠掌(社掌)。






藤島神社歴代宮司について

  • 2011.01.10 Monday
  • 20:16
ちょっと調査しなくてはならず、ついでに歴代宮司についてまとめました。


●藤島神社歴代宮司(代数・名前・ふりがな・生年〜没年・在任期間・前職―後職の順)


初 代 小鹽 良景(おじを・よしかげ)生没年など不詳
明治9年11月23日―明治14年5月14日 白山比弯声匍椹福宿毀


2 代 大館 尚氏(おほだち・ひさうぢ) 天保7年6月2日〜明治30年4月21日 福井県出身
明治14年11月12日―明治29年5月 藤島神社禰宜(元藤島神社権宮司)―不明
 

3 代 今井 清彦 (いまい・すがひこ) 萬延元年5月10日〜大正11年10月4日 三重県出身
明治29年5月18日―明治37年10月15日 氣比神社宮司(本務)―氣比神宮宮司、神宮少宮司、(伏見)稲荷神社(大社)宮司など


4 代 加納 利亮(かのう・としあき) 文久2年10月25日〜 福井県出身
明治37年10月15日―大正2年3月19日 藤島神社禰宜―若狭彦神社宮司


5 代 馬塲 鶴雄(ばば・つるを) 萬延元年12月20日〜 福井県出身
大正2年3月31日―昭和4年3月5日 福井県高等女学校長―福井県社・神明神社社司


6 代 二宮 正彰(にのみや・まさあき) 明治27年1月19日〜昭和56年5月16日 富山県出身
昭和4年3月5日―昭和7年4月16日 橿原神宮権宮司―函館八幡宮宮司、吉田神社宮司、生國魂神社宮司など


7 代 佐藤 東(さとう・あずま) 明治28年12月15日〜昭和63年7月17日 大分県出身
昭和7年4月16日 ―昭和9年3月26日 波上宮宮司―竈山神社宮司、神宮禰宜、富士山本宮浅間大社宮司など


8 代 片岡 常男(かたおか・とこお) 明治28年8月30日〜昭和35年2月2日 岡山県出身
昭和9年3月26日―昭和14年8月26日 北畠神社宮司―白山比弯声匍椹福宮崎神宮宮司など


9 代 横井 時常(よこい・ときひさ) 明治39年2月19日〜 愛知県出身
昭和14年8月26日―昭和15年12月27日 鶴岡八幡宮禰宜―神祇院教務官、靖國神社権宮司、広島護國神社宮司、近江神宮宮司など


10代 礒部 稜威雄(いそべ・いつを) 明治26年6月25日〜昭和55年5月7日 山口県出身
昭和15年12月27日―昭和19年3月14日 宮崎神宮禰宜―神奈川縣祭務官、野田神社・豊栄神社宮司、忌宮神社宮司など


11代 安齋 二郎(あんざい・じらう) 明治38年10月22日〜昭和55年1月28日 東京都出身(福島県)
昭和19年3月14日―昭和55年1月28日 神宮権禰宜―(逝去)


12代 杉原 永綏(すぎはら・えいすい) 大正8年7月20日〜 福井県出身
昭和55年8月20日―昭和58年4月1日 日吉神社宮司―日吉神社宮司(本務)


13代 上島 清彦(うえじま・きよひこ) 大正11年2月20日〜平成7年4月6日 福井県出身
昭和58年4月1日―平成7年4月6日 大瀧神社宮司―(逝去)


14代 山本 隆重(やまもと・たかしげ) 昭和22年1月13日〜 福井県出身
平成7年8月10日―(至現在) 福井神社宮司

藤島神社宝物展開催中

  • 2010.03.28 Sunday
  • 21:41
先だってお伝えしています藤島神社の宝物展が、福井市宝永の福井市立郷土歴史博物館において開催中です。

ポスター


チラシ


チラシ裏

藤島神社の学童絵画―70年ぶり”再会”―

  • 2010.02.05 Friday
  • 14:43
藤島神社の学童絵画 70年ぶり”再会”
  記憶たどり「感激」

●今朝の福井新聞に2日の続編が載っています。


 福井市毛矢3丁目の藤島神社で大量に発見された戦前の学童作品と作者の1人が4日、約70年の時を越えて”再会”を果たした。同市城東3丁目の原田和眞(かずみ)さん(80)が、3月からの展示に向けて作品が保管されている市立郷土歴史博物館を訪れ、児童期の自身が描いた絵画と対面。「まさか残っているとは感激」と目を細め、じっくりと見入っていた。

 南北朝時代の武将、新田義貞を祭る同神社の宝物庫で昨年末、義貞の没後600年を記念して1938(昭和13)年に創作された絵画や書、約540点が見つかった。同神社の大祭記念録には、福井市立實科高等女学校と福井市図画研究部が県内外の子どもたちから募り、奉納したことが記されている。
 心当たりのある作者を探す今月2日付の福井新聞紙面を見た原田さんは、おぼろげな記憶をたどり「ひょっとしたら」とすぐに同館に連絡。原田さんが宝永尋常小3年時に描いた絵画が確認された。
 画題は義貞の戦没地とされる新田塚(同市新田塚町)で、ほこらや木々を巧みに描写。鮮やかな水色の空と生い茂る緑を、クレヨンの強いタッチで描いている。本県学童から寄せられた全335点のうち、優秀作21点を同研究部が選考・編集したとする画集に収められている。
 原田さんは「何とも言えない気持ちだが、割とうまくて驚いた。空襲や震災を乗り越えて”両者”がよく会えた」と感慨深そうに作品を見つめていた。両親と3人で弁当を持って新田塚に行き、写生した記憶を思い出したという。
 また同神社の大祭記念録から、今回見つかった全作品は1938年5月に、市内2カ所で展示されていたことが分かった。原田さんは当時、福井駅前にあった大和百貨店(福屋デパート)で開かれた展示会を、家族で鑑賞したという。「百貨店の食堂でごちそうを食べ、ほめてもらったことが印象的」と振り返る。
 作品の一部は同博物館で3月19日から5月まで開かれる特別展「藤島神社の宝物」で公開予定。特別展の図録には全作品の作者と学校名を掲載する。問い合わせは同博物館=電話0776(21)0489。



約70年前に自身が描いた絵画と対面し、感慨にひたる原田さん=4日、福井市立郷土歴史博物館 (以上2月5日福井新聞より)

藤島神社で絵画、書発見 ―福井新聞―

  • 2010.02.02 Tuesday
  • 11:25
今日の福井新聞に当社の記事が載っています。やがて新聞社の記事の配信が消えてしまうので転載しておきます。



藤島神社で絵画、書発見

 開戦前の学童作品520点 70年越し“時代”語る
  市郷土歴博、3月一堂公開 作者探しも


特別展の出品に向けて整理作業が進められる約70年前の学童作品=福井市立郷土歴史博物館


 南北朝時代の武将、新田義貞を祭る藤島神社(福井市毛矢3丁目)の宝物庫でこのほど、約70年前に義貞の没後600年を記念して全国の子どもたちが描いた絵画や書が大量に見つかった。当時の時代背景を反映した作品が多く、同市立郷土歴史博物館で3月から開かれる特別展「藤島神社の宝物」で一堂に公開しようと整理作業が進められている。同館は「当時の学童作品は貴重。保存状態も良く、戦災や震災を奇跡的に乗り越えたタイムカプセルのよう」と驚くとともに、心当たりのある作者を探している。

 作品は特別展の準備のため宝物庫を確認した昨年12月4日、同館と神社の職員らが発見した。ほこりをかぶった状態の約50センチ四方の木箱に保管されていた。
 発見された資料などによると、第二次世界大戦の開戦を直後に控えた1938(昭和13)年に小学生や高等学校生が描いた絵画206点と、書道314点の計520点。福井市立實科高等女学校が義貞の没後600年を記念した神社の大祭に合わせて全国から募集し、絵画と書の2冊に分けて編集。同神社に奉納し、同年に建設された宝物庫に納め眠ったままだったとみられる。本県のほか函館や福岡、義貞の生誕地とされる群馬県からも寄せられている。
 作品は1点ずつ丁寧に台紙に張られ、色あせもなく保存状態は良好。絵画はクレヨンや水彩で描かれ、戦局を反映して日の丸を振る人々や神社に参る軍人、爆撃機などが目を引く。馬にまたがる義貞の勇猛な姿のほか、緑豊かな田園風景や心和む人物画もあり当時の子どもの豊かな感性が垣間見れる。書作品は整然とした筆遣いが多く、「日ノマル」などと書かれている。
 戦争の激化に伴い当時は展示の機会を逸したため、初めて日の目を見ると考えられる。特別展は3月19日から5月5日まで。重要文化財に指定されている兜(かぶと)や刀剣類などの品々と合わせ、県内作品を中心にできるだけ多く展示する予定。
 同館は全作品に記録された作者と学校名を基にリストを製作。「当時描いた心当たりのある人や家族を探したい」と呼び掛けている。問い合わせは市立郷土歴史博物館=電話0776(21)0489。 (福井新聞2月2日より)



 「開戦前」とは物々しいですが、藤島神社は昭和13年(1938)5月に御祭神・新田義貞公の御殉節(薨去)600年の大祭を斎行しました。その時の記念行事が福井県内、または全国規模で催され、かなり盛大な祭典だったようです。
 新聞には「戦争の激化に伴い当時は展示の機会を逸したため、初めて日の目を見る…」とありましたが、当社「六百年大祭記念録」によると昭和13年5月22・23日の両日、福井実科高等女学校において展覧会が行われたようであります。
「大祭を奉賛して福井市立実科高等女学校に於ては、全国の小学校、中等学校児童生徒の習字及図画の展覧会を開催したが新田公の誠忠を偲び奉って、その出品総数は521点に達し出品諸学校は東京、大阪をはじめ遠く台湾、北海道にも及ぶ22府県に達した…中略…会期終了後此等作品全部を習字、図画の2部に分って、画帖を作製、木箱に収めて藤島神社に奉納された」
とのことです。

 また、記念録にはその他「福井県下学童美術展」もあり、上記以外にも福井県下の小学校児童図書作品が21校・出品総数335点あったとのことです。
 「主催者(福井市図画研究部)に於て審査し厳選の上、21点を選び、画帖を作成木箱に収め、5月30日午後3時より藤島神社に於て会長筧作右衛門外会員参列の上奉納式を行った」
とありますので、21名の優秀作品が画帖に仕立てられこちらも宝物庫に納められたものと思われます。

藤島神社略誌

  • 2009.10.27 Tuesday
  • 11:59
 今までに数回、藤島神社の歴史というものについて皆さんにお話しする機会がありました。そのときに、神社の歴史をまとめてみましたので簡単にご紹介します。







「新田義貞公と藤島神社・新田塚の創建」



●藤島神社と御祭神



御 祭 神(お祀りされている神様)

 贈正一位 新田義貞公【源朝臣義貞】

  御 配 祀(併せて祭祀されている)

 贈従三位 新田義宗卿【源朝臣義宗】義貞公三男(新田家継承者)

    同   脇屋義助卿【源朝臣義助】義貞公弟(脇屋家始祖)

    同   新田義顕卿【源朝臣義顕】義貞公長男(嫡子だが戦没)

    同   新田義興卿【源朝臣義興】義貞公次男

        殉難将士(一族郎党の戦死者)

御 鎮 座 地(お鎮まりの場所)

  福井市毛矢3丁目8番21号(足羽山字共遊山)

  (旧称地番:福井市岩堀町62番地)

【現在境内:山奥町・足羽上町・毛矢3丁目・不動町・常盤木町の地籍】

新田義貞公肖像(藤島神社蔵)

 藤島神社蔵・新田義貞公肖像









●藤島神社「記念祭」(5月22日)と新田義貞公



 御祭神・新田義貞公は清和源氏の嫡流で、八幡太郎といわれた源義家公から数えて10代目の子孫に当たります。関東の上野国(群馬県)新田郡に住んだ一族は新田氏を称し、義貞公はその新田氏の嫡男として生まれました。

 元弘の変(1331)では後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと計画をされ、続く元弘3年(1333)には新田義貞公は密かに朝廷の命を受けて5月はじめ本国新田荘の生品神社を出発して鎌倉に攻め入り、遂に22日、元執権で得宗家・北条高時の鎌倉幕府を壊滅させました。鎌倉期を通じ北条家より冷遇されていたので、その思いも大変強いものでした。

 この記念すべき由緒ある日を、藤島神社では毎年5月22日に記念祭(大祭)として斎行しております。











●藤島神社「例大祭」(8月25日)



 鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇の建武中興の政治が始まりますが、この時足利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりました。新田義貞公は「盡忠報國」の精神を以て後醍醐天皇に尽くされ、楠木正成公が湊川で戦死された後も、形勢不利の中を延元元年(1336)、天皇の皇子恒良・尊良両親王(恒良親王は皇太子)を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城され、翌年3月金ケ崎落城と共に杣山へ、更に延元3年(1338)足利軍と福井平野で奮闘中、閏(うるう)7月2日灯明寺畷(新田塚)の「藤島の戦い」で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。享年は38歳といわれております。この閏7月2日を近代以降の暦に換算しますと8月25日になりますので、創建以降この日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。











●新田義貞公の戦死と灯明寺畷



 この新田義貞公戦死の地から明暦年間(1655〜57)に義貞公の兜が発見されましたので、福井藩主・松平光通候は萬治3年(1660)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。これが現在、国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田塚)です。











●新田義貞公祭祀神社の御鎮座



 新田義貞公の戦没地は、兜の発掘された、およそ現在の福井市新田塚町604番地(旧吉田郡西藤島村灯明寺畷、福万村・三ッ屋村)です。

 万治3年(1660)、松平光通侯によって創建された戦没碑(現今のもの)は水戸侯(徳川光圀)による湊川神社の濫觴となる楠木正成建碑より32年も前のことでした。

 下って明治3年(1870)、東京では新田義貞公の子孫である新田貞時横瀬貞篤(新田貞時の分家)、新田俊純はじめ一族旧臣らによって、新田義貞公を祭祀する神社の建設とその列格が請願されていました。

 同時期に福井藩主・松平茂昭侯は公の戦没地に一祠を建立(今の新田塚の祠)し、続いて公を奉斎する官幣社としての創建を建議。これは俗に「新田社」とか「新田神社」と呼ばれ、湊川神社の「楠社」や「楠神社」と同様のものでした。

 また、先の新田貞時(のち長男・新田貞善が継承)、横瀬貞篤、新田俊純の請願により、明治6年(1873)群馬県の新田金山城跡に新田神社が創建されて群馬県社に列しました。











●明治天皇より「藤島神社」の社号を下賜



 明治9年(1876)11月7日、灯明寺畷の祠(新田社)は別格官幣社に列せられて、畏くも明治天皇より「藤島神社」の社名を賜り、新田義貞公を主祭神、新田義宗卿、脇屋義助卿を配祀される旨を仰せ出されました。同年12月15日、同地の仮殿が落成したので、宮中より勅使・桐山純孝を遣わして御霊代を奉安せしめられ、ここに初めて朝廷の祭祀を行わせられました。

 次いで同11年(1878)1月10日、新田義顕卿、新田義興卿以下、新田一族郎党殉難将士を配祀せらるる旨、仰せ出だされました。











●藤島神社の受難期



 明治14年(1881)11月23日、灯明寺畷を南に距る十三町余、現在の福井大学の芦原街道を挟んだ向かい、福井市外吉田郡西藤島村牧ノ島(現在の福井市文京4丁目9番・10番・11番一帯)に社殿を新たに建設して遷座祭を斎行しました。

 しかし、同社地一帯は卑湿の地であり、また福井平野は九頭龍川と足羽川(やがて九頭龍川に合流)の大きな河川があり、治水も現在ほどよくありませんでしたので降雨に際して水害がしばしばありました。当地でも例外でなく、恐れ多くも濁水が境内神域を汚すことが多々あったため、同31年4月15日に現在の足羽山へ移転することが決定されました。



藤島神社(牧ノ島時代・明治14〜34年)

 藤島神社(牧ノ島時代 祝詞舎・中門前)





福井県下商工便覧

 「福井県下商工便覧」所収(牧ノ島時代)



福井県管内地誌略

 「福井県管内地誌略」所収(牧ノ島時代)













●藤島神社、足羽山へ



 明治31年4月15日に現在地の足羽山へ移転することを卜定せられ、奉遷会を組織。旧福井藩主家・松平康荘侯爵を会長として全国の官民有志が協力して、遂に同34年5月22日、社殿境域の工を竣り遷座祭が斎行されました。



藤島神社絵図(明治後期?)

 藤島神社絵図(足羽山時代)







●昭和天皇の御親拝と式年祭



 昭和8年10月28日、時の天皇陛下は陸軍特別大演習御統監のため福井県へ行幸遊ばされ、恐れ多くも藤島神社へ御親拝賜りました。その折に1万坪強の境内は一段と再整備がなされました。

 さらに、続く昭和13年5月の新田義貞公御殉節600年祭(式年の大祭)でも隆盛を極め、戦中ではありましたが、そのころの福井では新田公ブームで大変盛り上がっておりました。



昭和

 昭和天皇御親拝







●戦争・震災と戦後の復興



 昭和20年7月19日、戦火のため社務所と宝物殿を除く、御本殿以下諸殿が炎上しました。次いで御本殿・拝殿などの仮殿が徐々に竣工していましたが、またもや昭和23年6月28日の福井地方大震災にてその仮殿以下諸殿も倒壊しました。

 昭和29年にはまず御本殿が復興され、続く昭和31年11月8日、創建80周年大祭を斎行して復興奉賛会を組織。高松宮宣仁親王殿下を名誉総裁、旧福井藩主家・松平康昌元侯爵を総裁、熊谷組・熊谷太三郎氏を会長として再建に努め、翌年秋には諸殿が竣工しましたので、昭和32年11月12日に神殿竣工式が斎行されました。

(戦後編はまた改めて記そうと思います)



中門(戦前)

 戦前・中門前



現代・拝殿前

 現代・拝殿前





二の鳥居・全景

 戦前・二の鳥居 全景



二の鳥居・全景(現代)

 現代・二の鳥居 全景

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