藤島神社略誌

  • 2009.10.27 Tuesday
  • 11:59
 今までに数回、藤島神社の歴史というものについて皆さんにお話しする機会がありました。そのときに、神社の歴史をまとめてみましたので簡単にご紹介します。







「新田義貞公と藤島神社・新田塚の創建」



●藤島神社と御祭神



御 祭 神(お祀りされている神様)

 贈正一位 新田義貞公【源朝臣義貞】

  御 配 祀(併せて祭祀されている)

 贈従三位 新田義宗卿【源朝臣義宗】義貞公三男(新田家継承者)

    同   脇屋義助卿【源朝臣義助】義貞公弟(脇屋家始祖)

    同   新田義顕卿【源朝臣義顕】義貞公長男(嫡子だが戦没)

    同   新田義興卿【源朝臣義興】義貞公次男

        殉難将士(一族郎党の戦死者)

御 鎮 座 地(お鎮まりの場所)

  福井市毛矢3丁目8番21号(足羽山字共遊山)

  (旧称地番:福井市岩堀町62番地)

【現在境内:山奥町・足羽上町・毛矢3丁目・不動町・常盤木町の地籍】

新田義貞公肖像(藤島神社蔵)

 藤島神社蔵・新田義貞公肖像









●藤島神社「記念祭」(5月22日)と新田義貞公



 御祭神・新田義貞公は清和源氏の嫡流で、八幡太郎といわれた源義家公から数えて10代目の子孫に当たります。関東の上野国(群馬県)新田郡に住んだ一族は新田氏を称し、義貞公はその新田氏の嫡男として生まれました。

 元弘の変(1331)では後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうと計画をされ、続く元弘3年(1333)には新田義貞公は密かに朝廷の命を受けて5月はじめ本国新田荘の生品神社を出発して鎌倉に攻め入り、遂に22日、元執権で得宗家・北条高時の鎌倉幕府を壊滅させました。鎌倉期を通じ北条家より冷遇されていたので、その思いも大変強いものでした。

 この記念すべき由緒ある日を、藤島神社では毎年5月22日に記念祭(大祭)として斎行しております。











●藤島神社「例大祭」(8月25日)



 鎌倉幕府が滅亡後、後醍醐天皇の建武中興の政治が始まりますが、この時足利尊氏が天皇に謀叛を起し、南北朝の動乱の時代となりました。新田義貞公は「盡忠報國」の精神を以て後醍醐天皇に尽くされ、楠木正成公が湊川で戦死された後も、形勢不利の中を延元元年(1336)、天皇の皇子恒良・尊良両親王(恒良親王は皇太子)を奉じて敦賀の金ケ崎に籠城され、翌年3月金ケ崎落城と共に杣山へ、更に延元3年(1338)足利軍と福井平野で奮闘中、閏(うるう)7月2日灯明寺畷(新田塚)の「藤島の戦い」で壮烈なる戦死を遂げられたのであります。享年は38歳といわれております。この閏7月2日を近代以降の暦に換算しますと8月25日になりますので、創建以降この日を藤島神社の例大祭と定め、毎年厳粛なる祭典が盛大に行われております。











●新田義貞公の戦死と灯明寺畷



 この新田義貞公戦死の地から明暦年間(1655〜57)に義貞公の兜が発見されましたので、福井藩主・松平光通候は萬治3年(1660)そこに「新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建立されました。これが現在、国の史蹟として指定されている「史蹟灯明寺畷」(新田塚)です。











●新田義貞公祭祀神社の御鎮座



 新田義貞公の戦没地は、兜の発掘された、およそ現在の福井市新田塚町604番地(旧吉田郡西藤島村灯明寺畷、福万村・三ッ屋村)です。

 万治3年(1660)、松平光通侯によって創建された戦没碑(現今のもの)は水戸侯(徳川光圀)による湊川神社の濫觴となる楠木正成建碑より32年も前のことでした。

 下って明治3年(1870)、東京では新田義貞公の子孫である新田貞時横瀬貞篤(新田貞時の分家)、新田俊純はじめ一族旧臣らによって、新田義貞公を祭祀する神社の建設とその列格が請願されていました。

 同時期に福井藩主・松平茂昭侯は公の戦没地に一祠を建立(今の新田塚の祠)し、続いて公を奉斎する官幣社としての創建を建議。これは俗に「新田社」とか「新田神社」と呼ばれ、湊川神社の「楠社」や「楠神社」と同様のものでした。

 また、先の新田貞時(のち長男・新田貞善が継承)、横瀬貞篤、新田俊純の請願により、明治6年(1873)群馬県の新田金山城跡に新田神社が創建されて群馬県社に列しました。











●明治天皇より「藤島神社」の社号を下賜



 明治9年(1876)11月7日、灯明寺畷の祠(新田社)は別格官幣社に列せられて、畏くも明治天皇より「藤島神社」の社名を賜り、新田義貞公を主祭神、新田義宗卿、脇屋義助卿を配祀される旨を仰せ出されました。同年12月15日、同地の仮殿が落成したので、宮中より勅使・桐山純孝を遣わして御霊代を奉安せしめられ、ここに初めて朝廷の祭祀を行わせられました。

 次いで同11年(1878)1月10日、新田義顕卿、新田義興卿以下、新田一族郎党殉難将士を配祀せらるる旨、仰せ出だされました。











●藤島神社の受難期



 明治14年(1881)11月23日、灯明寺畷を南に距る十三町余、現在の福井大学の芦原街道を挟んだ向かい、福井市外吉田郡西藤島村牧ノ島(現在の福井市文京4丁目9番・10番・11番一帯)に社殿を新たに建設して遷座祭を斎行しました。

 しかし、同社地一帯は卑湿の地であり、また福井平野は九頭龍川と足羽川(やがて九頭龍川に合流)の大きな河川があり、治水も現在ほどよくありませんでしたので降雨に際して水害がしばしばありました。当地でも例外でなく、恐れ多くも濁水が境内神域を汚すことが多々あったため、同31年4月15日に現在の足羽山へ移転することが決定されました。



藤島神社(牧ノ島時代・明治14〜34年)

 藤島神社(牧ノ島時代 祝詞舎・中門前)





福井県下商工便覧

 「福井県下商工便覧」所収(牧ノ島時代)



福井県管内地誌略

 「福井県管内地誌略」所収(牧ノ島時代)













●藤島神社、足羽山へ



 明治31年4月15日に現在地の足羽山へ移転することを卜定せられ、奉遷会を組織。旧福井藩主家・松平康荘侯爵を会長として全国の官民有志が協力して、遂に同34年5月22日、社殿境域の工を竣り遷座祭が斎行されました。



藤島神社絵図(明治後期?)

 藤島神社絵図(足羽山時代)







●昭和天皇の御親拝と式年祭



 昭和8年10月28日、時の天皇陛下は陸軍特別大演習御統監のため福井県へ行幸遊ばされ、恐れ多くも藤島神社へ御親拝賜りました。その折に1万坪強の境内は一段と再整備がなされました。

 さらに、続く昭和13年5月の新田義貞公御殉節600年祭(式年の大祭)でも隆盛を極め、戦中ではありましたが、そのころの福井では新田公ブームで大変盛り上がっておりました。



昭和

 昭和天皇御親拝







●戦争・震災と戦後の復興



 昭和20年7月19日、戦火のため社務所と宝物殿を除く、御本殿以下諸殿が炎上しました。次いで御本殿・拝殿などの仮殿が徐々に竣工していましたが、またもや昭和23年6月28日の福井地方大震災にてその仮殿以下諸殿も倒壊しました。

 昭和29年にはまず御本殿が復興され、続く昭和31年11月8日、創建80周年大祭を斎行して復興奉賛会を組織。高松宮宣仁親王殿下を名誉総裁、旧福井藩主家・松平康昌元侯爵を総裁、熊谷組・熊谷太三郎氏を会長として再建に努め、翌年秋には諸殿が竣工しましたので、昭和32年11月12日に神殿竣工式が斎行されました。

(戦後編はまた改めて記そうと思います)



中門(戦前)

 戦前・中門前



現代・拝殿前

 現代・拝殿前





二の鳥居・全景

 戦前・二の鳥居 全景



二の鳥居・全景(現代)

 現代・二の鳥居 全景

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