続・大館尚氏

  • 2011.01.29 Saturday
  • 20:23
JUGEMテーマ:学問・学校

正編にて入りきらなかったので、続きです。



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発令日              役職・階級・補職・任官

慶応 2年(1866)  122日生

明治16年(1883 9 7日  機関校入校

明治20年(1887 712    海軍少機関士候補生・筑紫乗組年(旧海機卒)

明治21年(1888 3 8   日進乗組

明治21年(1888 917    海軍少機関士

明治21年(1888 918    金剛乗組

明治21年(18881110    清輝乗組

明治21年(18881114    清輝乗組・機関校教授

明治21年(18881220    清輝乗組

明治22年(1889 125    海兵機関術教官心得

明治23年(1890 717    比叡乗組

明治24年(1891)       叙正八位

明治24年(1891 723    武蔵乗組

明治24年(18911120    高千穂乗組

明治25年(1892 927    筑紫乗組

明治25年(18921221    海軍大機関士・迅鯨乗組

明治26年(1893131    叙從七位

明治26年(1893 5 5    横須賀水雷隊攻撃部水雷主機

明治26年(1893 623    松島乗組・水雷主機

明治27年(1894 4 4    橋立乗組・水雷主機

明治27年(1894 523    呉水雷隊攻撃部機関長・水雷主機

明治27年(1894 619    呉水雷隊攻撃部機関長・水雷主機・敷設部機関長

明治27年(189412 5    扶桑乗組

明治28年(1895 814    操江機関長

明治28年(1895927    六級俸

明治28年(18951118    勲六等

明治28年(18951126    叙正七位

明治28年(18951227    機関校教官・監事

明治29年(18961028    造船造兵監督官

明治29年(18961031    英国出張

明治31年(1898 222    海軍機関少監

明治31年(1898 330    造船造兵監督官

明治32年(1899 322    仏国留学

明治32年(1899 929    海軍機関中監

明治34年(1901 4 1    仏国駐在

明治34年(1901 9 2    命帰朝

明治35年(1902 312    八雲機関長

明治35年(1902 611    待命

明治35年(1902 730    教本部員・海大教官

明治35年(190211 8    東京造兵廠製造科長・海大教官

明治35年(19021120    東大工科大講師嘱託

明治36年(19031110    呉工廠検査官・造兵部部員

明治36年(19031124    解嘱託

明治38年(1905 318    海軍造兵中監・叙從五位勲五等

明治38年(1905 629    呉工廠造兵部部員

明治38年(1905 8 5    海軍造兵大監・勲四等旭日

明治38年(19051212    佐工廠造兵部長・勲三等旭日

明治43年(1910 115    呉工廠水雷部長

明治44年(1911 118    横工廠造兵部長

明治45年(1912 2 3    海軍造兵総監

大正 2年(191312 1    待命

大正 3年(1914 2 4    歿(48) 叙從四位

 

 


 

水谷叙彦(みずたに・よしひこ)

慶應元年(18651228日〜昭和22年(19471210

日本人で初めてゴルフをした人物(ゴルファー第1号)

明治・大正・昭和期の元海軍機関少将

愛知県出身。





明治18年(1885)海軍機関学校旧3期(第一次)を首席で卒業。

明治26年(1893)から3年間グリニッジ英国海軍大学に留学し、デザイン・バイ・ユーザーの先駆者となった。

在英中はマラック機関少佐より教授を受け、その講義ノートを、中島与曽八(のちの中将)が翻訳して『機関計画一斑』を作成し、日本の海軍機関計画の土台をつくった。また、在英中の明治29年(1896)、英国最古のロイヤルブラックヒース・ゴルフクラブで日本人として初めてゴルフをプレーした。同宿の米国人士官二人の友人に誘われて、その友人の手引きでゴルフを行ったことを、自らの日誌に「ゴルフィングを為す」と書き残しているという。これは日本にゴルフコースが誕生する明治34年(1901)よりも5年も前に本場英国でゴルフをしたということであり、日本人で初めてゴルフをプレーした人物と称される。

明治36年(1903926日に海軍大監となり、呉造船廠造機科長兼海大教官、同年1130日、呉工廠造機部長、明治39年(1906126日、海軍大佐、明治40年(1907)海軍造船造兵監督官として再び英国に駐在し、翌年の帰国後、優れた工場管理規程を作成した。明治42年(1909121日海軍少将、明治44年(1911118日、再び呉工廠造機部長となる。明治45年(1912629日侍命、翌大正2年(1913210日予備役。

この間、山本安次郎と共に機関学会創立に関わり、海軍機関術の発展充実に責献。

大正4年(1915)工学博士。

英国の技術を導入して国産の兵器を製造する英国の民間企業が出資し設立された日本製鋼の社長も務めた。功四級。

昭和22年(19471210日逝去。享年81歳。

妻は大館尚氏の次女まち子(昭和21年(19461213日没 同墓)。

『日本海軍将官総覧』、『帝国海軍提督総覧』など参照

 

 

福島縫次郎(ふくしま・ぬいじろう)

18731933明治-昭和時代前期の鉄道技術者。

明治6318日生まれ。

福島敬典(よしのり)の養子。

明治32年鉄道庁に入り、日露戦争後、鉄道院に勤務。

欧米視察後、東京鉄道局工作課長などを勤める。

のち東京帝國大学大講師。

日本製管社長。

昭和8413日死去。61歳。福井県出身。東京帝大卒。旧姓は大館。

 

 

海軍少将・福島敬典(ふくしま・よしのり)

18391896幕末-明治時代の武士、軍人。

天保10722日生まれ。

越前國(福井県)敦賀藩士。

戊辰戦争では新政府軍の摂津艦に乗り組み、越後、箱館を転戦。

維新後海軍大尉となり、「筑波」艦長などを勤め、明治20年海軍少将。

明治29123日死去。58歳。

通称は弥太六。名は「たかのり」ともよむ。

 

発令日          補職・任官

天保10年(1839)年 722日生

慶応 4年(1868)年 1        富有丸乗組年(福井藩)

明治元年(1868)年10        摂津乗組

明治 2年(1869)年 1        朝陽副長

明治 2年(1869)年 6        富士山乗組

明治 2年(1869)年 8        大坂丸船長代

明治 4年(1871)年 517    海軍大尉年(初任)・甲鉄艦長代

明治 4年(1871)年 6        鳳翔艦長

明治 4年(1871)年1110    海軍少佐

明治 5年(1872)年 4        日進艦長

明治 5年(1872)年 8 2    海軍中佐

明治 6年(1873)年 3 3    龍驤艦長

明治11年(1878)年1121    海軍大佐

明治15年(1882)年 7 7    扶桑艦長

明治15年(1882)年 819    迅鯨艦長

明治15年(1882)年12 7    横須賀水兵屯営長・横須賀予備艦総理

明治18年(1885)年 221    横須賀水兵屯営長・兵次長・教務総理

明治19年(1886)年 1 6    筑波艦長

明治19年(1886)年1228    海兵次長・教務総理

明治20年(1887)年 926    海軍少将

明治20年(1887)年 928    横須賀軍港司令官

明治22年(1889)年 3 8    横須賀軍港司令官/将官会議議員

明治25年(1892)年1212    第二局長

明治26年(1893)年 520    待命

明治26年(1893)年 524    予備役

明治29年(1896)年12 3    歿(57)

 

 

小川 正孝(おがわ・まさたか)

元治2126日(1865221日)〜昭和5年(1930711

日本の化学者。

松山中学(現在の愛媛県立松山東高等学校)から東京大学に学び、ロンドン大学のラムゼーの研究室に留学した。2年間の留学中トリアナイト(トリウム鉱石)の中に新元素を探す研究を行った。

明治39年(1906)の帰国後も研究を続け、「原子量が約10043番目の元素」として明治41年(1908)に発表し、ニッポニウム (Nipponium: Np) と命名したと発表した。

追試で存在を明確な証拠が得られないまま、43番目の元素は、昭和22年(1947)にセグレによって重水素核とモリブデンの衝突実験で発見されたテクネチウムとなった。

しかし、1990年代になって研究の再検討がおこなわれ、小川の発見したのは原子番号75のレニウム(大正14年(1925)にノダックらによって発見されたとされている)であった可能性が高いと見られている。

最近になり、小川が昭和5年(1930)、亡くなる直前に自ら精製したニッポニウムを含む試料を東京大学など2ヶ所でX線分析にかけてもらった結果、ニッポニウムはレニウムだという結論に達していたことが判明した。

大正8年(1919)から昭和3年(1928)まで東北大学の総長を勤め、在任中に金属材料研究所、工学部の創設などを行った。

教え子には、大正製薬の創業者である石井絹治郎がいる。

コメント
私の祖父小川正孝、曽祖父大館宗氏、その他の親戚について、とても詳しく載せていただき、感謝しております。両親の亡き後、子孫に正確に伝えることができ、ありがたく思います。(旧姓小川)
  • 楠知子
  • 2013/10/17 9:51 PM
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