贈從三位脇屋義助卿薨去日について

  • 2014.06.11 Wednesday
  • 03:09
JUGEMテーマ:日記・一般

本日は、新田公舎弟の脇屋義助卿の御命日(6月13日)が近くなってきたこともあり、ちょっと薨去日時の整理をしておこうと感じました。


なお、「卿」や「薨去」という語については、きちんとした歴史認識の下での敬称であることを付記させていただきます。


一昨日、桂宮宜仁親王殿下の御薨去にありましては、報道関係がほぼ一斉に「逝去」という言葉を発しています。

正しくは「薨去」とされるべきです。我が国は、古来より敬称についても細かい規定があり、同じことを表すにしても厳格な区分がなされるなど、特有の文化があります。


天皇や上皇、法皇、また皇后、皇太后、太皇太后は「崩御」(ほうぎょ)、皇族や三位以上の人の訃報に接して「薨去」(こうきょ)。他、故人に敬意を払って「逝去」(せいきょ)。今は位階が生前に贈られることはないのでほぼ有り得ないですが、かつては四位、五位の訃報には「卒去」(そっきょ)とも言っていました。江戸時代の家譜にもそれがきちんと使い分けてありますね。三位以上の方は「薨ず」、四位や五位に叙された方には「卒す」、そうでない方には「死す」となっているのは恐らくその使い分けです。


「卿」(きょう)という敬称も、もちろんそうです。


また、今や歴史上の人物に誰でも「○○公」と付ければよいというものではありません。

「公」は一位もしくは大臣の任にある場合、「卿」は三位もしくは参議以上の職にある場合、「朝臣」(あそん)は四位の位にある方の敬称です。


当社の御祭神記を見ても、主祭神・贈正一位新田義貞公、配祀神・贈從三位新田義宗卿贈從三位脇屋義助卿贈從三位新田義顯卿贈從三位新田義興卿…とあります。これは、本当に歴史的な認識に基づいたものであり、決して適当につけているものではありません。


また、「新田義貞公」というのは現代の人々からの通称で、正しくは「贈正一位大納言源朝臣義貞公」となります。

生前は「正四位上左近衞中將源義貞朝臣」と呼ばれていました。しかし、卒去後、南朝天皇から從三位中納言、続いて從二位大納言が贈られ、晴れて「新田義貞卿」となりました。明治に至って、北朝系天皇である明治天皇より、改めて正三位、追って正一位が贈られ、「新田義貞公」と称されることとなりました。


「朝臣」(あそん)も敬称としての場合は「あそん」、姓の際は(源朝臣、藤原朝臣、平朝臣など)「あそみ」と訓ずるのが正しく、この読み方も混乱しているようです。


さて、前振りが長くなってしまいましたが、脇屋義助卿の薨去は興国3年5月2日(1342年6月13日=グレゴリオ暦)というのが「藤島神社御祭神記」に拠るところです。また、これは南朝年号であり、北朝の年号では康永元年。


義助卿は兄・義貞公亡き後の南朝軍勢を結集して越前の黒丸城を攻め落としましたが、足利方に敗れて越前から退却しました。興国3年(1342年)に、中国・四国方面の武家総大将(南朝)に任命されて四国に渡ったものの、伊予国府(国分寺)で卒去。明治16年8月6日、明治天皇より從三位を贈位され、藤島神社に勅使が派遣されました。


また昭和8年(1933年)、兄・義貞公の館跡と考えられている安養寺(現群馬県太田市)から義助卿を追悼する板碑が発見されました。北朝年号で書かれていたことから真贋問題に発展しましたが、北朝方についた新田一族(岩松氏)側の営んだものだと考えられています。これに拠るとその日付は康永元年5月11日(1342年6月22日?)となっています。


いずれにしても、配祀(明治9年11月)の後は祭日を決める必要があり、御祭神記にあるように興国3年5月2日、つまりグレゴリオ暦に換算した1342年6月13日が御祭日と決し、つまり明治10年6月13日以降は同日で祭典が営まれているということになります。

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